先進国の中で日本人の幸福度がダントツで低い理由

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「先進国の中で日本人の幸福度がダントツで低い理由は何でしょう?」

こんな質問をされたことはありますか?

一度や二度は誰しも日本人なら見聞きしたことはあるかもしれませんね。
※そもそも、日本人の幸福度ランキングは最下位でもありませんが、、
最下位はかつてバルト三国と呼ばれた国々の一つであるリベリアや紛争の多発するアフリカ諸国です(2017年3月20日時点)

私は、先進国である時点で日本の幸福度は低めに感じました。

でもなんと、みなさんご存知か存じ上げませんが、2017年3月20日に発表された世界幸福度ランキングでは、ノルウェーが1位を表し、次いでデンマーク、アイスランド、スイス、フィンランド、オランダ、カナダ、ニュージーランド、、といった北欧諸国や欧米諸国が軒を連ねる結果となりました。

あれ、幸福度って、途上国の方が確か高くなかったっけ、、?

と私は思いました。
確かブータンとか高くなかったっけ?
と思いましたが、それは幸福度を測る側の指標基準とは別に、
ブータンの国民自身がそれぞれ「自分は幸せだ」と思っているから幸福の国、と呼ばれるんだそうです。

幸福度を測る指標とされるのは国民一人あたりの国内総生産や国の政情、国民の健康寿命などですが、やはり福祉が充実していることの賜物でしょうか、北欧諸国が多いですね。
そもそも「福祉」という言葉には福が入っています。やはり人々の幸せに直結してこその福祉政策でしょう。
英語でも福祉はwelfareやwell-beingと表現されます。well「良く」が入っている以上、人々の生活を向上させるものである必要があるのでしょうね。

幸福って何か──
今ある幸せや、恵まれていることに目を向け、気が付き、「幸せだ」と感じること

なんて、言われたりするかもしれません。
求めるのではなく、気付きましょう、今ある幸せに感謝しましょう、といった具合でしょうか。

みなさんなんとなく感じておられると思いますが、
そもそも、
なぜ日本人は自分たちが「幸福度が低い」と思っているのでしょうか?

自分たちは不幸な民族だと思っているのでしょうか?もしかしたらそう思いたいのでしょうか?

ちょっとこんなこと言ったらせっかくこのサイトを見に来てくださっている方々に失礼かも知れませんが、
そもそも
このサイトを見ている方々も、
なぜこのサイトを見ているのでしょう?

たまたま閲覧して頂いてるのでしょうか?ネットサーフィンしてたら出てきたから見ているだけなのでしょうか?

それとも、自分たちになんとなく当てはまりそうなことを書いている気がしたから、この記事をお読みいただいているのでしょうか──

自分たちは、不幸な人生を送り続けていると思っていらっしゃいますか?
そこまではいかないけど、日々不幸なことを日常生活で感じながら過ごし、そうして積み重ねていくのが人生だとお考えでいらっしゃるでしょうか。
それが自分たちの、たとえ日本人でなくとも一人の人間としての運命だと思っていらっしゃるのでしょうか。

結構、自分の状況を不幸なものに貶め、実際にそういう状況に陥れるのは簡単です。
一瞬で出来てしまいます。

そこにまるで重力が存在するかのように、
一気にボロボロとガラガラと音を立てて跡形もなく崩れ落ちていきます

一旦崩れると、あっさりと消え失せてしまいます。
「失うのは簡単だ、一瞬だ」と称されるのはこのことだと思います。

そして、さらに、ほとんどの人が認識しておらず、気付きたくもないことかもしれませんが、
実は、そうやって自分を不幸な状況に陥れるのは、認めたくないのですが、どこかで気持ちよかったりするのです。

実は、純粋なものではないものの、快さを感じているのです。
嫌な想像をしてしまって、望んでもいない展開を頭の中で繰り広げてしまっているのに、です。
ここでは詳しくは語りませんが、
脳科学的に言うと、
それは、エンドルフィンという脳内麻薬が人間の脳内で生成され、その麻薬によって気持ちよく感じているからなのです。

たとえば、ドロドロの展開の昼ドラを観ていて、その話の内容に似たことがもし自分の人生に起こりでもしたら絶対に嫌なはずなのに、
自分がその一連の悲劇をドラマとして鑑賞していると、なぜだか
「うわー、、(;´д`)」と思いつつも、頭の中のその感情と反対側のようなところで、
なんとなくどこかジーンと気持ち良いものを、心地よいものを感じたりはしないでしょうか。
はたまた、知人や友人の不幸な話、苦労話などを聞いていて「大変だなぁ」「辛かっただろうなぁ」と率直な感想を抱きつつも、当人に向けてその「大変だねぇ」「辛かっただろうねぇ」という言葉をかける際に、なんとなく自分がどこかしみじみと気持ちよくなっていくのを感じたことはないでしょうか。

マイナスの事柄の中に趣をなぜか見出し、それをしみじみと鑑賞している自分がいる、みたいな感じです。
それは、ニュアンスとしてはバタフライエフェクト的な感覚です。ここでの意味はだいぶ違いますが、
「その一方で」みたいなことを言いたいのでちょっと例えに出してみました。
もちろんこれらの行動は無意識に起こるものだと思います。

エンドルフィンの話に戻りますが、
この脳内麻薬があるから、人々はつい不幸な妄想をしたり、望んでもいないことを考えたりしてしまうのをやめられないのかも知れません。

「うわー」「こわいなー」「嫌だなー」と言いながらも、お菓子を食べながらドロドロの昼ドラを観るのがやめられなくなるのです。

エンドルフィン(脳内麻薬)には読んで字のごとく、中毒性があります。頭ではドロドロの展開も本当は観ていて快いものではないのに、その不快の中で麻薬の快楽にどっぷりと浸かってしまうのです。

「こんなことが実際に起こったら嫌だ」と分かっていても、どこかその頭の反対側のようなところで、その妄想をしていてジワーッとした気持ちよさを感じている自分がいるのです。不幸に酔う、不幸な人生に翻弄される自分を哀れだと、けれどもなぜだかそれを美しく感じて酔いしれるのです。

被害妄想のカラクリはこれなのでしょうか。
今度また別の記事にて追究してみたいです。

不幸な事柄を考えたり、嫌なもの、望まないものについて考えたりすると脳内麻薬が出るということはわかりましたが、
脳内麻薬によって快感が得られるならそれはそれでいい、と一瞬思いそうにもなります。

でも、不幸なことばっかり考えている人に幸せそうな人はいませんよね。

自分の許容範囲を大きく超えるようなキャパオーバーの不幸、憎悪劇などに触れると逆に耐えられないがためにそこでやめることができたりもしますが、そういったものに触れ続けてしまうとどんどん慣れていき、ハマっていき、自分の不幸の許容範囲が広くなってしまいます。

実はこれ、本当にいいことがありません。
そういうものを見慣れたから精神的に成熟できるとか強くなれるとかそういったこととはまた違います。

自分が直感的に、本能的に「嫌だ!」と感じたものについては、なるべく本能のままに避けたほうがいいのです。
逃げていい、ということなのですが、どうしても「逃げる」という言葉を使うとマイナスのイメージがありますよね。
特に、「逃げる」など、嫌なもの、脅威などを避けることは日本人の美学美徳に反しますよね。そもそも日本人は理性的に行動することを好み、本能にしたがって直感的に行動することがなんとなく許せないところがあると思います。

でも、この「逃げる」という言葉を「回避」という言葉に変えるとどうでしょうか?

回避というと、賢く避ける、という感じがしませんか?
スマートなイメージといいますか。
よく考えれば、「逃げる」も、「回避」も、とる行動としては一緒ですよね。
でも、その行動をどういう目線で捉えるかで全く印象が異なります。
よって、ある事象を「逃げる」→「回避」と変換し、そして「回避」という言葉がスマートなものとして聞こえるのであれば、「逃げる」つまり避けることは決して悪いことでも後ろめたいことでもないのです。

昨年、「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが大変人気を集め、一躍「逃げ恥」ブームとして世間を沸かせましたね。
この言葉は、ハンガリーのことわざで、「自分の戦う場所を選べ」「自分の得意分野で勝負せよ」という意味を持っているようです。
ドラマの中では平匡さんが「逃げるは一時の恥だが、生き抜くことが大事」的なことをおっしゃっていました。
「逃げる」という行動は、どの意味も効果も持ち併せていると思います。

日本人は、「逃げる」ということが苦手かもしれません。
戦乱の時代は、敵に攻められ逃げ場もなくなり生き延びる可能性が薄くなると
籠城して自害する、という風習がありました。敵に殺されたり命乞いをしたりするくらいなら自分で命を絶ったほうがマシだ、という価値観が存在しました。

また、太平洋戦争当時は神風特別攻撃隊、通称「特攻隊」と呼ばれる攻撃隊が組まれ、
隊員たちが自らの命を懸けて敵陣に突っ込むという攻撃の形がとられました。
機内には片道分の燃料しか積まされなかったそうですが、もうこの時点で生きて帰ってくることを想定されていません。(ちなみに筆者の母方の祖父は、当時この特攻隊員として駆り出され、実際に乗り組みましたが、
行きの途中で終戦の旨を知らされ、残りの燃料で帰ってくることができたそうです)

この特攻隊は当時アメリカからかなり恐れられました。
特攻隊による攻撃事態が米軍にとっての脅威だっただけではなく、自分たちが死ぬことを前提にして命を懸けて突撃してくるというこの特攻隊の姿勢自体が考えられないものであったそうです。
このことから、日本人の根性や覚悟にかける意志の強さなどがうかがえると思います。
逃げるくらいなら、命を捨てるというほかの民族には理解できない文化や、そこに懸ける想いがあるのかもしれませんね。

こういったことから、もしかしたら、日本人は他の民族よりも自分の身体や気持ちなど、「自分」というものを大事にできないところがあるのかもしれません。社会性が強いというか、常に意識が「お国のため」「名誉のため」など、外に向けられ、外形的なものにフォーカスして生きてきたのかもしれません。

前述したように、「逃げる」と「回避する」という言葉はそれぞれマイナスの意味合いを帯びたものとそうでないものに区別されましたが、その言葉が指す中身、行動の内容はほぼ同一のものです。

ただそれを、マイナスのものとして捉え、その行動をとった自分に負い目を感じて生きていくか、
はたまたそれをプラスに捉え、あの時の選択は実にスマートだったと振り返るかで自分がどんな人生を生きてきたか、ということの捉え方、描写の仕方ががらりと変わります。

プラスに捉えるだけで自分の軌跡にも大いに自信が持てます。
さらに、自分は輝かしい人生を歩んでこれたという認識がなされると、これからもそうやって自分は未来を歩んでいけるという、絶対的な、まさに、根拠のいらない自信に満ち溢れ、未来を伐り開いていくことができるのです。

本来、先のことというのは100%の予測というものができませんし、不安というものがあってもおかしくありません。
しかし、こうして過去の数々の出来事を「成功体験」と捉え、その「成功体験」を積み重ねていくと、「あの時こうできたから、今度もできるはず」という個別具体的な成功事例に頼らず、ゆくゆくは

「自分だから、できる」「できるに決まっている、それが自分だから」

という、自分自身への絶対的な自信へとつながるのです。
これこそが、本当の「自信」ではないでしょうか。
自分を信じる。
過去のデータをもとに信じようとするのは、それがたとえ自分の成功事例というデータだとしても、まだそのデータ自体を頼っている段階なのかもしれません。

本当の自信というのは、そういう段階を必要とせず、
「自分だから(できる、なれる)」
とゆるぎなく言い切るものなのではないでしょうか。

また「逃げ恥」の話に戻りますが、ドラマの中では、生き抜くことが大事だと語られたように、
生きていれば、生き延びれば何度でも良いことには巡り会えます。
一度逃げて生命を確保できればあとはどんなことだってできるのです。

それと同じで、「逃げる」ことは、「回避」なので、
回避すれば回避したことでしか味わえない良いことがたくさん待っています。
回避を選択したその先にしかない未来というものもあるのです。しかもそれはけっこう充実したものであったりします。

けれどもそれをいつまでも「逃げた」と捉えていると、いつまでも「恥」や負い目が自分をついて回るかもしれません。「逃げた」と捉えるだけで、いつまでも「逃げる」という状況から逃げ出せない未来を作り出していってしまうかもしれません。

でも、本当はそれは、スマートで、効率的な選択をしただけなのです。それに気づくだけで自分のことも責めなくなります。自分はなんてすばらしい人間なんだ、なんて賢い選択ができる人間なんだ、と自分をほめることができるようにもなり、自己肯定感の向上にもつながります。

日本人は、とても我慢強いです。世界で一番忍耐強いといっても過言ではないと思います。過酷なものにも文句ひとつ言わずに耐え忍ぶ姿勢や精神の在り方は、世界中から称賛されています。

耐えることは、その人の人間性を大きく成長させます。
内面を美しくさせます。男でも女でもです。
そしてそこに、日本人特有の美学も存在するのです。

耐えることは決してムダなわけではありませんが、
自分の本当の心の声を気づきにくくさせることにもつながります。
本音と建前の文化を際立たせます。

つらいことにも耐え続けていると、だんだん限界が、自分ではわからなくなってしまいます。もっと行くと、「限界なんてない!」と熱血キャラのようにもなってしまいますが、それは実際には自分の心と体にさらに鞭打つことになります。

どんなに内面が強固なものとなっても、この人間の大きさ自体が大きくなるわけでもありません。

人間の体はこの薄皮で覆われていますが、どんなにメンタルが強くなったと自称したところでこの皮膚が頑丈な鱗にでも変わるわけでもありません。

中島みゆきの「銀の竜の背に乗って」という曲にもありますが、人間が自分の痛みでも他人の痛みでも、そういった「声」というものに敏感でいるために、私たちはこの弱い身体をもって生まれてくるのかもしれません。

そして、その心や体が本当は限界を感じているのに、そこはかとない辛さや痛みが全身をほとばしり、悲鳴を上げているのに、それにも気づかずに、存在を全否定し、メンタルや体をブチブチと壊していくその過程は、なんと惨いことでしょうか。

人間は唯一自殺をする生き物です。自分に無理を強いる生き物です。自分で自分に制限や制約を掛ける生き物です。

昨今話題となっている過労死についてはここでは深く触れないでおきますが、

自分の心身の限界や心の声を無視し、自分をさらに追い詰めていき、ある日突然バタッと倒れる、そしてそのまま息を引き取るなんていうことは、
もちろんそこまで世間のため、会社のために働かれている方のその姿勢には大変感服しますが、

そうやってこの世を去られることが、その方にとっても、人が生きるということを考える上でも、この世に生まれた存在のふさわしい生き方を考えると、なんと不条理なことでしょうか。
非常に残念なだけではありません。そこはかとない無念さ、無情さには、怒りだけでは表現しきれないものがあります。

大変長くなりましたし、話もたくさん横道にそれましたが、なんとなく大事なことを理解していただけたでしょうか?趣旨的なものが理解していただけたら嬉しいです。

本題の質問「先進国の中で日本人の幸福度がダントツに低い理由」に戻ると、
このような質問に率直に答えると、筆者自身の考える答えとしては、「日本人的な価値観(伝統的な価値観や美学、美徳)がそうさせているから」というのがあります。

しかし、この質問に隠された重要なポイントは、ここではありません。この質問の本質は、実は別にあります。

そもそも、なぜ、何を指して、日本人の幸福度が低いと言うのでしょうか?

もちろんこの幸福度ランキングは、冒頭でも述べたとおり判断基準というものが存在し、それが数値化されてはじき出された結果なのですが、その数値として出てきた結果ではありません。

この記事をご覧になっている方々自身が、
すでに「日本人は幸福度が低い」「日本人は不幸だ」という目をもって、見ているのです。

そういったフィルターをかけているのです。日本人であるあなたたちご自身に。

冒頭ではなく、あえてここで述べますが、実は、世界の幸福度ランキングにおける日本の順位というのは、順位として、低かったことはありません。

2017年3月20日時点での順位も155位中、51位です。上位1/3に入っています。上の下ぐらいです。決して低い順位とは言えないでしょう。
このランキングは2012年から行われており、順位を下げた年もありますが、対象国の数も大きくは変わっていませんし、日本の順位がその中でも下位であったことはありません。
よく「先進国なのに低い」とは言われますが。でも日本ほどの先進国ではないのに日本より順位が高い国もたくさんあります。

この本題の質問に違和感を抱かなかった人たちは、
自分たちを、そういう人種だと決めつけていろいろな可能性をあきらめているのではないでしょうか。または、なにかしら漠然とした不安や恐れを未来に抱いているのではないでしょうか。そういう方々が、このブログの閲覧者の中にある一定の割合でいたりするんじゃないでしょうか。もちろん、私もこういった質問をされてもそんなに違和感を覚えませんでした。

日本の幸福度が世界の順位と比べて決して低いほうではないのに、「日本人の幸福度は低い」と思っていらっしゃる方々へ。
すべての方がこう思ってらっしゃるわけではないですが、まずは、「自分たちは、どうせ不幸な人間だ。そういう人種だから仕方ない。そういうものだ」と思うのを、やめてみたらいかがでしょうか?そういう固定観念を取り払ってみてはどうでしょうか。
もちろんその固定観念を払しょくするにはある種の過程が必要です。

本題のような質問に触れて、「日本人の幸福度=低い」と聞いて、
「ああ、やっぱり、、」みたいに思うのは、もうそういう固定観念が植え付けられていますよ、という証拠なのかもしれません。

「そんなことないよ!自分たちが幸福度が低いなんて思ってないよー!」と反論したくなる人もおそらくたくさんいらっしゃると思います。
ですが、
日本人であり、日本で暮らしている以上、あなたはそういう文化の中にまぎれて、塗れて生きているので多少は染まっている可能性はあります。
人種的に日本人である以上、外国人と比べればそういう傾向はあります。

「じゃあ、それを、どうやって取り除いていったらいいのか?」というと

その話は、また別の回にて、、、。

 

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